急転直下の ”梅雨明け宣言” 。
「えっ!これで梅雨明け?」といった空模様の本日。
予てより鑑賞する事にしていた「空海と高野山の至宝展」へ向かいました。
大規模とは言えない展示スペースに比して、その内容は…高密度。
非常に見応えがありました。
↑ 制托迦童子像 運慶作 前期展示で拝めず(涙) -本展記念書籍より- 朝一番に愚息の行事絡みで運転手を勤めた後、彼の目的地に近接した仙台市博物館に立ち寄りました。
正に、この機会を狙っていたわけで(汗)。もはやお盆前の声が聞こえてくると、こういうタイミングで捻じ込むしかないのです。
平日にもかかわらず、連日のCM効果もあいまってか、程良い客入りである事が見てとれました。
彼の地 高野山に詣でたとしても、当たり前に鑑賞できる至宝では無い事から、その機会的な希少性も加わって、老若男女の興味を刺激したのではなかろうかと思われ…(笑)。
まぁ、昨今の歴男・歴女を筆頭に、ちょいと毛色の変わった筋では刀ブームだとか、はたまたパワースポット巡りが転じて御朱印ブームなんて趣味も流行っている様ですし(笑)。
そういう意味では、多少 ”渋い企画” であっても、時々の空気と内容次第では集客できるという事なのでしょうね。

この展覧会で鑑賞したかったものは数多ありますが、「この機会を逸したら死ぬまで目にする事はないであろう。」と考えていた仏像・仏画を見る事が叶いました(喜)。
その一つが
諸尊仏龕 (しょそんぶつがん) 通称 枕本尊。
これまでも、所謂 写し (模造)は目にしてきました。
その折に感じた処理しきれない違和感を何とか崩したかったわけですが…、実際に目の前に鎮座する
諸尊仏龕 は、想像を超えて素晴らしい御本尊でした(感涙)。
空海が片時も離さず持っていたという逸話も頷けました。
↑ 諸尊仏龕 7~8世紀 -本展記念書籍より- また、写真や模造品でしか見た事のなかった
両界曼荼羅 も。
これが8~9世紀に存在していたわけで…。
細に入り、密に入り…とはこの事かと(絶句)。
近代に作られた模写・模造品よりも細密でした。
↑ 板彫両界曼荼羅 8~9世紀 -本展記念書籍より- 細密と云えば、突出していたのが
浮彫九尊像 。
こちらは、前出の曼荼羅よりも後年になりますね。10世紀から11世紀…所謂 平安期になるわけですが、時代を経た分、技量は勿論、仏像の表現にこなれた感が滲み出てきています。
阿弥陀三尊に
不動明王、
大威徳明王、
四天王の九尊が、ビャクダンという洋木に緻密に彫られています。
それはもう…圧巻。
正に
米粒写経状態 でした(笑)。
↑ 浮彫九尊像 10~11世紀 -本展記念書籍より- 圧巻と言えば、展示冒頭の空海像もそうですが、此度の展覧会における華と言えば、密教の仏像たち と云う事になるでしょう。
その中にあって、
国宝 八大童子立像 は際立って見えました。
これらの童子は、10世紀前後の仏像との異なりは当然の事としても、21世紀の人間を圧倒する表現を成し得ているのは、やはり 作者(製作に関与した)の 運慶 が放つ凄みとしか思えず…。
それは、8体の内2体が南北朝時代に再製作された事を鑑みれば、その出来栄え(存在感)に差があるのも頷けるわけで…。
運慶が活躍した時代は、空海が持ち帰った密教世界の仏を形にする事に習熟した時代と言い換えられるかもしれません。
がしかし、こと 運慶 の図抜けた表現力と存在感に触れて覚える畏怖の念は、宗教的なそれとは明らかに異なり、ただただ圧倒された先にある一つの感情なのでした。
↑ 恵光童子像 運慶作 -本展記念書籍より- 他にも見どころは沢山ありました。
空海の云われが残る 鈷杵(こしょ)も目を見張りましたし、空海が筆を走らせたとされる書も素晴らしかったですね。
お世辞にも広いとは言い難い空間で、よくぞここまで展示できたな…と感心しきり(笑)。もっとも、それが故に、前期・後期で展示物の入れ替えを要したわけで…。あえて遺憾に思うところがあるとすれば…それだけかな(寂笑)。
とまれ、結構な時間を過ごさせて頂きましたよ。
気付けば、幾度も童子像の周りを徘徊しておりました(恥笑)。まぁ、仏像の背後まで見れる機会は滅多に無いですから…。
展覧会の最後に売店に寄って、自分用のお土産品を所望。
定番の 展覧記念書籍 と毎度お馴染み 手拭 ↓ をば。
さて…。
本展は、東日本大震災復興記念 特別展 と題された展覧会だったので、何ら特別な関係性がないにも関わらず、震災復興的主旨だけで催された展覧会なのだと捉えておりましたが、記念書籍 ↓ を購入して斜読みしてみたところ、全く無関係では無い事が分かりました。
高野山と伊達家との関係(高野山における数々の寄進や墓碑等の存在)は勿論ですが、職業柄 琴線に響いたのは下記。
彼ら紀州大工は、応其のもと高野山や京都で多くの大規模作事に携わったと考えられており、おそらく慶長年間の日本ではその技量・経験ともにトップクラスの工人組織であった。慶長8~9年頃には豊臣氏や応其の動向と対応するように紀州大工による作事も縮小に向かったと考えられ、この頃に刑部左衛門らが仙台へとヘッドハンティングされた可能性が高い。新しい国づくりへと向かっていた仙台藩側からすれば、この上ないタイミングであったといえるのではないだろうか。
-展覧会記念書籍 P155より引用-
↑ 記念本と高野山の般若心経手拭をば この
刑部左衛門 という名前を聞けばピンとくるのが、仙台市の八幡町に鎮座する 大崎八幡宮 の造営です。
また、風光明美な景観で名高い松島にあって、名所旧跡の一つに数えられる瑞巌寺というお寺があります。
このお寺で使われた主要な材料の多くが紀州熊野の木材である事が記録に残っています
僅かな史実を鑑みただけでも、遠く離れた紀州との繋がりが、けして薄いものではなかった事が伺われますよね…。
※当然、これらの事も本書籍に明記されておりました。
一言では表現し切れる事ではありませんが…。
私自身も、市井に生きる人間として…、社会の周縁に立ちそして歩く人間として…、間違いなく歴史の一端を作っているのかもしれない…と不遜にも考えてしまいました。
これからも脇道を トボトボ と歩いていこうと思います(笑)。
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